鍛錬

推敲を一切していない早口の乱文です

懺悔です

 「数字」というのは便利でいてとんでもなく残酷なものだ、と最近気が付く。むしろ長い間抱いていた人間(もちろん自分自身も含むすべての)への嫌悪感の一部の原因が数字によるものだったのだと気づいたという方が正確である。これは私の懺悔だ。

 数字に限らず記号は皆一様にその対象の持つ生々しさを消してしまう。もちろんこれは記号のいい点でもある。例えばトイレを表すピクトグラム。あの人間の形を模した二つの記号は、人間の排泄行為など微塵も感じさせない。それでも我々はどの国にいようとそこが用を足すところだとわかる。他人の排泄行為を連想して気分を害することもない。どれだけ洗練された公の施設だろうと使用される。地図記号、標識、記号は我々の合理的な生活に欠かせない。

 さて数字というのは、記号の中でもずば抜けて便利で、汎用性が高く、公共性も最も高いと言っていい。「三百円」が理解できない非日本語話者でも、「300円」であればどの硬貨を何枚差し出せばよいかわかるのだから。それでいて比喩表現にも長けている。私たちは何かを認識しそれを表現するのに、数字を使わずにはいられない。例えば部屋の広さを伝えるとして、「〇畳」、「〇坪」といった単位を使うのが定石である。対象のサイズが大きくなればなるほど数字を使わずにはいられない。仮に人ひとりが入るのがやっとのロッカーのような狭い部屋であったとしよう。それでも「一人」という数字を使わざるを得ないのである。

 冒頭で数字は残酷なものだと言った。特に人の命、その人生を数字で表すことはとても危ういことだ。そして数字で人を数える私達もまた残酷な生き物である。

 2011年、東日本大震災が発生した。誰しも記憶に新しいことであろう。私はそのニュースを神戸で見ていた。1995年に阪神淡路大震災に見舞われた地である。強い揺れに加え大規模な津波の被害に襲われたこの震災では、連日犠牲者、行方不明者の数は増え、あっという間に阪神淡路大震災の数を「超えた」。2020年3月現在、東日本大震災の犠牲者は1万5899人とされている(nikkei.comより)。阪神淡路大震災の犠牲者は6434人である。(この数字は発生直後から大きく変化していない)その時私は、「この震災に比べたら阪神淡路大震災は大したことはなかったのだ。」と思ったのである。阪神淡路大震災では津波も、放射能汚染の被害もなかった。現に10年もたたず復興しているのだから。そう思った。物心つく頃から阪神淡路大震災についてその凄惨さについて学んできたはずであったのに。あろうことか犠牲者の数で災害の被害の大きさを測り、たいしたことはない、と一蹴したのだ。

 私はすぐに自分の考えにぞっとした。あの震災が大したことがないわけはないのに。

 それからも度々私は事件や事故の規模を犠牲者の数で測り、比較してしまう自分に嫌気が差していたが、それでもその癖は治らなかった。例えば8人が亡くなった交通事故のニュースの後に2人が亡くなった交通事故のニュースを見ると、「被害者が少なくてよかった」と思う。本当に鈍感で残酷な考え方である。被害者や犠牲者の遺族からすれば、全体の被害数など問題ではない。たった一人その人を失ったことに絶望しているのに、テレビ越しに、またオンラインでそのニュースを読む私はのうのうと「今回の事件は犠牲者が少なくてよかった」などと安堵しのたまう。

 しかしこれは私に限った話ではない。人類全体に言えることであろう。新型コロナウイルスの被害状況も、当然罹患者や死亡者は数字で伝えられる。いちいち名前を羅列していけばいくら時間があっても足りない。そして私達はどこの国が被害が「マシ」でどの地域が「ヤバい」かを取り留めもなく話す。そこで語られるのは犠牲者の命ではな単なる記号である。

 想像してみてほしい。あなたの暮らすアパートの住民全員が何かの事故で亡くなったのを聞くのと、それと同じ人数が被害にあった事故のニュースを見るのと。全く意味が変わってくる。前者はリアルに生々しく死を感じるだろう。後者は見たことさえ忘れてしまうような些細な出来事だ。しかし実際に起きていることは、失われているものは同じなのだ。数字として記号化された結果私達は他人の死に鈍感になる。

 しかし情報化社会の現代、朝から晩までひっきりなしに他人の死を耳にすることは避けられない。そのすべてに同じように痛みを感じていれば、とても精神が持たない。メディアのなかった時代と違って、私たちは鈍感にならざるを得ないのかもしれない。それでも私は数字を扱う危うさを噛みしめていたいと思う。

初めて記事というものを書く。

けれどこれは記事というよりも私の中で日々生まれ続ける問いである。

つまりこれから綴られていくのはただの凡庸な大学生の問題提起、主義主張であり、しかもそれはおそらく世間一般的に重要な問題ではなく、またもっともらしい答えが出るとも限らない。徹頭徹尾無駄な、生産性のない文章である。

 

 

 

 私は日本人で、母語として日本語を使用している。日本では初等教育の段階で、そのアルファベット(漢字やひらがなのことである)のその成り立ちについて簡単に学ぶ。例えば某ドラマでお馴染みの、「人という字は人と人が支えあって成り立っているのです。」だとか。漢字は象形文字なのである。基礎的な漢字であればほとんどの日本人はその成り立ちを知っている。(知識として身についているかは、また別問題であるが)しかし私の漢字についての知識は義務教育レベルで停滞しているし、特に日本語学にも漢字の歴史についてもあまり興味をそそられないので、別段深く考えたことはなかった。

 だがある日ふと、思い出せないほど些細なきっかけから「買」という漢字の成り立ちについて強く疑問を持つこととなった。

「買」という漢字は音読みで[バイ]、訓読みで[か(う)]と読み、基本的には紙幣等の共通的価値のあるものと食品や生活用品などの品物を交換する行為を指す。(と私は解釈している)ここ百年以上資本主義を謳歌している我々日本人には説明の必要すらないほど身近で、ありふれた漢字である。そしてその成り立ちは私の拙い記憶が正しければ、たしか貨幣を表す「貝」という文字と、網を表す「罒」という文字からであったはずである。硬貨や紙幣を使用し始める前、我々の祖先は特定の貝類の殻を貨幣としていたことから、「財」、「賦」、「費」、「貧」など、金銭にまつわる漢字には「貝」が使われていることが多い。

しかしよく考えてみれば、先ほど述べたように、日本社会で品物を売買するという文化が根付いたのはここ百年から二百年の話なのである。それまでは物々交換が基本的な物品のやり取りの手法であったし、紙幣が登場しても地域によっては根深く残っていた。

つまり日本人が「交換」ではなく「買う」という行為を始めたのはつい最近のことなのだ。しかし漢字の歴史は古く、遠く古代中国の占いに使われた神聖文字から始まっている。先ほど述べた貝類を貨幣替わりにしていたことから厳密にいえば「買う」という行為が全く新しいものであるわけではないだろうが、これは資本主義社会でいう「買う」とは全くかけ離れたものといってよいと思う。我々の使う貨幣は本質的には無価値のものだからである。共通の価値を創り出しそれらと品物を「交換」している。数百年前の人々からすれば異様で愚かに映る行為であろう。

そもそも「かう」の語源はどこから来ているのか。古くから使われていたはずはないのだから、物々交換を指す動詞があったはずである。なぜ貨幣社会に移行する際、なぜ「買」という漢字が選ばれたのだろうか?

 

少し調べれば一定の信憑性のある答えにたどり着けそうではあるが面倒なのでここで終わる。