鍛錬

推敲を一切していない早口の乱文です

初めて記事というものを書く。

けれどこれは記事というよりも私の中で日々生まれ続ける問いである。

つまりこれから綴られていくのはただの凡庸な大学生の問題提起、主義主張であり、しかもそれはおそらく世間一般的に重要な問題ではなく、またもっともらしい答えが出るとも限らない。徹頭徹尾無駄な、生産性のない文章である。

 

 

 

 私は日本人で、母語として日本語を使用している。日本では初等教育の段階で、そのアルファベット(漢字やひらがなのことである)のその成り立ちについて簡単に学ぶ。例えば某ドラマでお馴染みの、「人という字は人と人が支えあって成り立っているのです。」だとか。漢字は象形文字なのである。基礎的な漢字であればほとんどの日本人はその成り立ちを知っている。(知識として身についているかは、また別問題であるが)しかし私の漢字についての知識は義務教育レベルで停滞しているし、特に日本語学にも漢字の歴史についてもあまり興味をそそられないので、別段深く考えたことはなかった。

 だがある日ふと、思い出せないほど些細なきっかけから「買」という漢字の成り立ちについて強く疑問を持つこととなった。

「買」という漢字は音読みで[バイ]、訓読みで[か(う)]と読み、基本的には紙幣等の共通的価値のあるものと食品や生活用品などの品物を交換する行為を指す。(と私は解釈している)ここ百年以上資本主義を謳歌している我々日本人には説明の必要すらないほど身近で、ありふれた漢字である。そしてその成り立ちは私の拙い記憶が正しければ、たしか貨幣を表す「貝」という文字と、網を表す「罒」という文字からであったはずである。硬貨や紙幣を使用し始める前、我々の祖先は特定の貝類の殻を貨幣としていたことから、「財」、「賦」、「費」、「貧」など、金銭にまつわる漢字には「貝」が使われていることが多い。

しかしよく考えてみれば、先ほど述べたように、日本社会で品物を売買するという文化が根付いたのはここ百年から二百年の話なのである。それまでは物々交換が基本的な物品のやり取りの手法であったし、紙幣が登場しても地域によっては根深く残っていた。

つまり日本人が「交換」ではなく「買う」という行為を始めたのはつい最近のことなのだ。しかし漢字の歴史は古く、遠く古代中国の占いに使われた神聖文字から始まっている。先ほど述べた貝類を貨幣替わりにしていたことから厳密にいえば「買う」という行為が全く新しいものであるわけではないだろうが、これは資本主義社会でいう「買う」とは全くかけ離れたものといってよいと思う。我々の使う貨幣は本質的には無価値のものだからである。共通の価値を創り出しそれらと品物を「交換」している。数百年前の人々からすれば異様で愚かに映る行為であろう。

そもそも「かう」の語源はどこから来ているのか。古くから使われていたはずはないのだから、物々交換を指す動詞があったはずである。なぜ貨幣社会に移行する際、なぜ「買」という漢字が選ばれたのだろうか?

 

少し調べれば一定の信憑性のある答えにたどり着けそうではあるが面倒なのでここで終わる。